・山間の思索者へのオマージュ
 
餌の匂いがすると目の色を変えて、すすろうと群がってくる蝿。
彼らは虫の本能でしか行動できないので、
人の遠慮や奥ゆかしさを決して認識しない。

弱っておとなしくしている者と、
静寂をたたえる思索者の見分けをつける事ができない。

静かな者を見境なく刺し、温厚な者へこそより攻撃性を増し、
血をすすろうと大喜びで襲いかかる。

無自覚に次々発せられる蝿の羽音は暴力のように彼らを痛めつける。

蝿に知恵を伝えてやろうとした思索者は逆に怪我を負わされて帰ってくるだろう。
そして孤独の中に帰っても、蝿どものやかましい羽音は鼓膜にこびり付き、
夜のあいだもうなされ続ける。

より大きな音を立て、より強い力を得る事が価値である蝿には、
知恵など無価値も同然である。

もう二度と蝿の群がる市場に近づくまいと、
思索者は山にこもり静かに生を終えるだろう。

だが死してなお彼の周りに安らぎは訪れない。
蝿どもは彼の遺品を嗅ぎ付けると無残に切り刻み、
餌に加工しては食い散らかし、汚していく。

そしていつの世までも、血にまみれた蛮行を繰り返し続けるのだ。
今日も市場は、うなる蝿どもの羽音に埋めつくされている。
 
 
  
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・根源と文化
地球の裏側の国から、はるばるやってきた人との対話。

筆談と口頭を駆使して、互いに言葉の壁を越える努力をする。
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国も違い、文化も違い、初対面の上に言語の壁があっても、
根源を向いた話なら、会話は通じるもの。
論理によって突き詰めようとした者達、人格化し物語を語った者達、
どの文化を引き合いに出そうとも、根源が同じなら話題の着地点も近い。
物理的距離の無関係さを改めて納得するのだった。
・地中の思索者
 
美しい宝石の結晶は人目に付かぬ地下深くで生まれ、ひっそりとキラめいている。
その光景は人の世にも似ている。
思索者はまるで宝石の様に、世の深部で静かに輝きをたたえている。

なぜ彼らは地中に留まるのか。
ひとたび地表に現れるなら、風雨に晒され、荒く濁った岩石にぶつかり、
その繊細な結晶は傷だらけになってしまうのだろう。

私は感受する。

たった今、この地下深くに潜む、まだ見ぬ美しい結晶の息づかいを。
彼らは独り地中で目を閉ざし、己を見つめているのであろう。

誰の目にも触れず精錬された思索、それは最早、
世俗を超えた輝きを秘めているに違いない。

もし彼らの気が向くならば、観察者のためにも、
その言葉を世に現して欲しいと願うのであった。
 
・アルテミス神殿にて

アルテミス神殿にきらめく朝露の中、
潤う冷気に触れながら、残骸となった石の上で賽を転がす戯れのひととき。

2500年前はこの石もまた荘厳な神殿の一部を成していたのだろう。
崩れ去った石柱、湧きいで苔むす緑がたたえる静けさに耳を澄ますと、
滅びと生成、流転する万物の運動を意識は観察し始めざるをえない。

壊れ、生まれる物質の現象から徐々に抽象の空を見上げると、
その運動自身を私は観察し始めている。

その時、入江要介は無く、私と運動が在った。

しばらくしてふと気が付くと、ここはアルテミス神殿であった。
そう、この場所がどこであるのか、
気が付かなければ忘れる程どうでも良い事であった。

場所を神格化し、ごっこ遊びをするのも楽しいが、
表面だけをなぞる行為は決して戯れの域を出ないのは当然である。

運動は現象として物質に表れる。だが運動そのものは物質ではない。
地球上のどこに立てば流転運動それ自体がこの眼球に映るのか。
そんな場所などありえるはずが無い。

何処に立とうと同じ事。眼を瞑ればいつも遍在するそれを観る事ができよう。
思惟で歩んだその場所で、感受し観た景観こそ賢人もまた観た景観であるはずだ。

抽象の空から目を戻すと、冷たく輝く朝露は、透き通る日の光に消えていった。
 



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・存在者の運動
 
先人の著作より抜粋。

【存在者の運動は、存在者が廃棄され、自分だけでの存在
〔対自存在、自独存在〕に達するということであるから、
死は分裂の側面であり、そこでは、到達した自分だけでの存在は、
運動のなかに入っていった存在者とは、別のものであることになる。】

文面と表現法は違っても、前項拙文「私と木」とこの文の考察対象は違わない。

普遍的な事に向かって歩んで行くならば、時代も国も越え、
その普遍性ゆえ、誰もが同じものを見る事になるのだ。
 
・私と木
 
めぶいては枯れゆく葉と、うまれては朽ちゆくこの身体、

いったい何が違うのであろうか。

人生の四季に移ろいゆく、葉という自分を、私は幹から眺めている。

風に飛びゆく儚い葉っぱ。 

青葉で散るも、枯れ葉で散るも、一巡した四季に元の葉は無し。

私の葉、散り際を想って待つのもまた一興。
 
・観察地点
  
  
大昔の日本の賢人。

ここに立って意味の根源と、その構造を眺めていたに違いない。

それが言葉によって分かたれたのを直観した時、「分かった」と発語したのだろう。

その地点から発された一語は、我々と共に響き続けている。

分かち合う構造、ここにまた個と全の同一性の側面が現れている。

 
・南国で考える
この南国にも思索する者が居た。

文明社会と距離をおいた一人の絵描き。 晩年の作品のタイトルはこうだ。

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「 我々はどこから来たのか  我々は何者か  我々はどこへ行くのか 」
・存在論と葉っぱ
 
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横たわる枯れ葉の屍より立ちいでる、かぐわしい死の気配。
葉も人も、形を成せば、やがては崩れ風と化す。
死は苦痛か安息か。
それを見届けるには風と化してなお、私は在らねばならない。
・決まりの向こう
原理を元に証明や展開をするというプロセスは学問にあるが、
原理以前を直接探ろうとする学問はどれだけあるのだろう。

日本との共通文字、漢字とアルファベットでの筆談。
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「人智の外側」と呟くと、彼も応えて呟く
「人類の知りえる事は、森の中のたった一本の木ほどに過ぎないのだろう。」
・市場の蠅
 
居るであろう、思惟に暮らすまだ見ぬ友人たち。
身の置き所に疲れ、不安に弱っているならば先人の残したこの言葉を紹介する。

 

「のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。

君は毒のある蠅に刺されて、疲れている。百カ所に傷を負うて、血によごれている。
しかも君の誇りは、それにたいして怒ろうともしない。
蠅どもは、まったく無邪気に、無考えに、君の血を吸おうとする。
血液のないかれらの生まれつきが血をほしがるのだ。
それゆえ、まったく無考えに君を刺すのだ。

かれらにむかって、もはや腕はあげるな。かれらの数は限りがない。
蠅たたきになることは君の運命でない。」



どうもこの辺の事は国・時代を問わずおおむね共通のようである。

蠅の群がる市場に居るくらいならば、
広場で子供達とサイコロ遊びに興じている方がマシと言うものなのであろう。
・死と犬
長年飼っていた柴犬が死ぬ。
甘えて飛びついて来たのが、今はもう土に還るだけの物質となった。

現象として起こる死、これは一体何なのであろうか。

口々に言う。
死んでしまって可哀想に。
そう言う彼らは死の何を知っているつもりなのだろうか。

一体誰が自分の死を可哀想だと思っているのか、考えてみるといい。
自分は可哀想だと思う事のできる意識が、
死んでもまだある事を前提としている事になる。
思い込みや想像でなければ、死んだ当事者でもない彼らに
なぜそんな事が分かると言うのだろう。

他者の死は他者であるが故、自分で体験して知る事は出来ない。
だが自分の死は必ず体験する事になる。
人が死へ臨む姿勢は考えずにただ怯える事だけではない。
・ドクサとロジック
 
懐疑の弱い土壌に、憶見は深く根を張る。
そうして根付いた億見は、時が経つにつれ、やがて巨木の様に大きく強固になった。
人々はその影の下に集まり、みな肩を寄せ合い安堵している。

だが智者はそこに立ち入らない。
それらは正しさに欠けた不安定なものであると見抜いているからだ。

古代ギリシャのある智者は、論理という薬を用い、眼前で巨木を消し去ってみせた。
彼らを憶見から解き放とうとしたのだ。

だが安住する拠り所を無くした彼らは、恥をかかされた腹いせにその智者を殺した。

こうして人々は皆、また巨木の影に身を寄せ集め、死ぬまでそこで過ごし続ける。
その光景は古代も現代も何ひとつ変わっていないのであった。

・在るということ
 


ある少年の詩。







ぼくは 

しぬかもしれない

でもぼくはしねない 

いやしなないんだ

ぼくだけは 

ぜったいにしなない

なぜならば 

ぼくは 

じぶんじしんだから






12歳の時、彼は自殺した。

 
・言葉と質
大言淡淡、小言詹詹/夫言非吹也、言者有言

賢人にこうボヤかせるのなら、
紀元前いつぞやの世俗も、二千年以上経った今の世俗も、
大して様子は変わっていないのだろう。

思慮と反省を経て濾過された、質ある正しい言葉があれば、
感情によって押し出された、意味の定まらぬ空疎な言葉もある。
空疎な言葉は立ちどころに消え去るが、
研磨された質ある言葉は、何千年経とうとも、その輝きがおとろえることは無い。

・考える異端者
智慧ある者や天才達にとって、
世間と折り合いをつけて暮らすのは苦労を要する事だろう。

ある西洋人は、発言ひとつ間違えれば処刑されてしまうような時代に生まれた。
彼は何年もかけて辿り着いた正しい考えを発表するため、
権力に睨まれぬよう苦心し、細心の注意を払って活動した。

ある東洋人は金のある社会的地位の高い環境に生まれた。
彼はそれに価値を見出すことはなく、
乞食となって煩わしい社会から離脱して修行を積んだ。

うまく立ち回る事が出来ず、もしくは立ち回る気など無いがゆえに、
虐げられ、殺され、社会から強制排除された天才達の数は知れない。

そして今日もまた、智慧者達は、
この現代社会となんとか折り合いを付けて暮らしているのであろう。
自分より遥かに優れているであろう彼等の考えを、
聞いてみたいものだと思うのであった。