先人の著作より抜粋。
【存在者の運動は、存在者が廃棄され、自分だけでの存在
〔対自存在、自独存在〕に達するということであるから、
死は分裂の側面であり、そこでは、到達した自分だけでの存在は、
運動のなかに入っていった存在者とは、別のものであることになる。】
文面と表現法は違っても、前項拙文「私と木」とこの文の考察対象は違わない。
普遍的な事に向かって歩んで行くならば、時代も国も越え、
その普遍性ゆえ、誰もが同じものを見る事になるのだ。
めぶいては枯れゆく葉と、うまれては朽ちゆくこの身体、
いったい何が違うのであろうか。
人生の四季に移ろいゆく、葉という自分を、私は幹から眺めている。
風に飛びゆく儚い葉っぱ。
青葉で散るも、枯れ葉で散るも、一巡した四季に元の葉は無し。
私の葉、散り際を想って待つのもまた一興。